川中地区散策Ⅰ

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散策の道 伊倉①

伊倉遺跡

 弥生時代前期末から中期にわたる遺跡(袋状の貯蔵用竪穴六十六基、発見)と、後期末から古墳時代前期にわたる遺跡(竪穴式住宅跡十一基、発見)からなり、火の見山の北西麓の洪積台地上に拡がっている。 
 伊倉遺跡で確認された土杭や住居跡は中期を主体とするものであり、大型土杭群は中期前半のものとされ、なかには口径三・一一メートル、深さ二・九五メートルの巨大な重曹式の複式土坑も発見されている。
 この袋状の土坑は中期末をもって姿を消していることから、このころ貯蔵設備は木造の高床式倉庫へと移行していったものと考えられる。
 また古墳時代への移行期の集落が弥生中期の土坑群と重なる状況で検出され、住居址の近くから、口径三八・五センチ、高さ九三センチもの県内最大の合口壺棺が出土した。

 昭和45年の県教育委員会の調査では、洪積台地の東端で、弥生時代後期末から古墳時代にかけての竪穴式住宅跡十一基が発見された。

 昭和55年の山口大学の調査では、台地の北端が発掘され、弥生時代前期末から中期に至る袋状竪穴十三基が検出されている。

 

上空から発掘当時の遺跡
上空から現在の伊倉
発掘調査時の遺物
弥生時代の土器棺墓

散策の道 伊倉②

伊倉の石造物
 庚申塚Ⅰ:親子松
 綾羅木村と伊倉村との境には、庚申塚があり、かって三本の松の木があったという。松の木のよりそった格好が、人間の親子のように見受けられることから、親子松と呼ばれていた。

 この一帯は、今では想像もできないような風景でした。田んぼの中を細い曲がりくねった道が通り、夜ともなれば真っ暗になって、全くさびしい場所でした。狐や狸、いたちなどの動物も多く、川中の人口より多いくらいでした。
 そんな中で、三本の松が庚申塚を守るように枝を広げていました。大きな松がお父さん松、二番目の松がお母さん松、その間の小さな松が子ども松、ちょうど親子のようでしたの、誰ともなく「親子松」と呼んでいました。親子松周辺は、子ども達のよき遊び場所で、子どもたちはヤブの中に小鳥を捕るわなを仕掛け、学校帰りに見廻るのを日課としていました。また、親子松は村人のコミュニティの場でもあり、この道を通る村人はこの松の根本で休むのが常でした。このような親子松は長く川中の人々に親しまれてきました。現在の親子松は、初代が枯れたため、有志の方が植え替えた二代目です。

 【民話】
 とんと、むかしのものがたり、綾羅木村と伊倉村との境にある庚申塚に、仲の良い三本の松が大きく枝を広げておりました。よりそった松のすがたが、ちょうど人間の親子のようにほほえましくみえるので村人の誰言うとなく「ありゃ、親子松じゃ。」とよんで、大切にしておったそうな。
 さてさて、綾羅木村にすむ与作と吾一。隣村の伊倉の里の祝言に招かれたその晩遅くの帰り道。二人がそろそろ親子松にさしかかったころ。「うんにゃ!そげぇなはなしがあってたまるもんかい。吾一やもしも狐がでたら、わしが退治してやるけん、しんぱいせんでええっちゃ!それより折り詰めがおもとうなったけん、はよう親子松でひとやすみしような!!」
 ほろ酔い気分の二人連れ。あっちへふらり、こっちへふらり。「与作……。  お、おまえのちょうちん、ついたりきえたりしちょるけど、お狐さんがついてきたんとちがうんかい?」「吾一、おまえ、それでも男か。弱虫男じゃ。ほれ、ひとやすみ、ひとやすみ。」大きな松のねもとに、どっかりこしを下ろした与作と吾一。
 「やい、吾一。狐なんかでんじゃったろうが。わしの折り詰めをみてみ。ほら、ありゃ、りゃ ?ない!ない!ない! なんてこっちゃ。」「与作、わしもない。たしかにしっかり折り詰めをにぎとったんじゃが、やっぱりないわ。」大きな口をあんぐりあけたまんまの与作と吾一。はるかとおくをかけていく母と子の狐を、しっているのはお月さまと親子松ばかり。
 こうしてそののちも、親子松のあたりで、おなかをすかしたあかちゃん狐や狸やいたちが村人たちから折り詰めをちょうだいしていったそうな。
 ここ、川中地区に人間さまのかずより狐や狸やいたちが、たあんと多くすんでいたころの、本当のお話。  



 

親子松
親子松と庚申塚
伊倉庚申塚 Ⅰ 伊倉町2丁目

散策の道 伊倉③

伊倉の石造物2

庚申塚(こうしんづか) (伊倉 三ヶ所) 
 主に集落のはずれの村の境目などに置かれていて、道祖神のように村や辻の守り神の役割を果たしていました。
 その年の豊穣を祈るために、1月11日迄の日曜日に「申(さる)緒打ち(おうち)」という行事が行われていました。(申緒を作り、大きなものを一組ずつ、東、中央、西の庚申塚に供え、祝宴を催します。昔は、朝早く人に見られなうちに、苗代田に椎の木とススキの穂を立て、豊穣を祈っていました。)
―(この申緒(さるお)とは農耕の為に、牛馬に引かせる鋤の先につけ、牛馬と連結する綱のことを言う)―





お忌(おいみ)石(いし)(伊倉本町) 
 お忌石(おいみいし)と呼ばれる大きな石が二つ(梶山敏雄宅と森時彦宅の二か所)あります。この二つの石は今も大切に祀られてお花の絶えることがありません。毎年12月中旬から下旬にかけての一週間、お忌みさんという神事があり、この間、人々は家に籠って精進する慣わしであった。この期間の夜には神様が白馬に乗って、人々の精進の様子を見て廻られると言い伝えられていた。この慣わしを破った人が神様に鞭打たれて石になったいう。
伊倉本町24
伊倉東町3  馳走家池田 前 伊倉本町2
伊倉本町27(梶山家)
伊倉本町26(森家)

散策の道 伊倉 伊倉の石造物

石造物3
伊倉の地蔵群(伊倉本町)辻地蔵七ケ所 
 地蔵祭りは、早世した幼児を弔うための祭りで8月に執り行われます。
 各地蔵の前に灯火をあげ、香を焚いて参詣者を接待します。夕方になると子どもたちは浴衣に着替え、おひねりを持って七ケ所の地蔵を回り、お菓子の接待を受けます。

    
 川中小学校入口 伊倉本町19        伊倉本町16  


   伊倉本町25

伊倉本町3
伊倉本町5
伊倉本町6①
伊倉本町6②(豊神社手前)

散策の道 伊倉③

伊倉の旧家
 江戸時代の豪農を偲ぶ 名残をとどめる家並
 
 伊倉は川中でも最も古い集落で、家並みやしきたりの中に古い時代の名残をとどめています。
 伊倉の名の由来は、「山口県風土誌」に“生倉はもと生(イク)であるが、昔官倉があったことから倉の字が添えられたものであろう”と記し、「防長地名淵鑑」にも“生倉は元と意久にて、官倉を置かれたる世に意久倉と云いしが、立郷の後、郷名二字の制によりて生倉と定められし”と説いている。“このイクの意味は分らない。一説にイク(生、活)は「生き生き」したこと、また別の説に「火神」のことともいう”とも述べている。

               (山口県地名考:高橋文雄)
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