地名の由来1(伊倉)

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伊倉

【昔の伊倉】
  『山口県風土誌』に“生倉はもと生(イク)
 であるが、むかし官倉があったことから倉の
 字が添えられたものであろう”と記し
 『防長地名淵鑑』にも
 “生倉は元と意久にて、官倉を置かれたる世に
  意久倉と云いしが、立郷の後、郷名二字の制に
より生倉と定められしなるべし”と説いている。
 “このイクの意味は分からない。
一説にイク(生、活)「生き生き」したこと
   また別の説に「火神」のことともいうとも
   述べている。            
                   (『山口県地名考』高橋文雄)

  伊倉は現在の「川中地区」の中では最も古い地名
である。
 伊倉の名は平安時代(794年~1184年)の
文献に現れる。 

 我が国最初の百科事典とされる「和名類聚抄」に、
長門国豊浦郡八郷の1つとして「生倉郷」が見える。
「生倉郷」は、高山寺本に「以久良」、流布本に
「伊久」と訓んでいる。伊倉は古代の「生倉郷」の
名が伝わったものと思われる。

貞観十五年(873年、平安時代) 『三代実録』
12月15日「長門国正六位上位意久神に従五位を
授ける」とする記事がある。

この「意久神」は後の伊倉八幡宮(現在の豊神社)
の前身と考えられ、
相殿の「伊久神社」は
その名残りと考えられる。

 貞治三年(1364年、北朝時代)
『国文寺文書』に「長門国法華寺免田坪付注文
 伊倉村」とある

 応永九年(1402年、南北朝時代)
2月29日大内盛見寄進状写に「豊西郡伊倉」
と見える。
卯月5日の「恵良広慶打渡状」に、
去る29日御寄進の地伊倉名の土肥入道跡を 

1・2宮両社と亀山宮に寄進している。
                              (亀山八幡宮文書)

 応永三十四年(1427年)
『住吉神社文書』
「中村重方・吉田堅重連署書状写」2月19日
にも、
住吉神社の“御造営料所伊倉”とある。

 文明十三年(1481年)
『住吉神社文書』
「一の宮神領豊東・豊西両郡田数并土貢注文
 案写」6月にも、
 一の宮の“御造営料所伊倉名内”とある。

 天正十六年(1588年)
『忌宮神社文書』
「二宮社領并社頭掟書」閏5月13日に

 二宮社領の「御造営料」として“米卅三石五斗
 豊西郡 伊倉・綾羅木・重富三ヵ所在
之”と見える。
このように伊倉村にはこれら諸寺社の免田が
散在していた。

 天文二十二年(1553年)
『閥閲録』11月11日
 “長門国豊西郡伊倉村拾三石足の事、
 父忠秀譲状の旨、元鑑
の知行に相違ない”
との大内義長の書状がある(巻166)

 弘治四年(1557年)
 9月3日に、豊西郡伊倉村の内
 十三石足埴生備前守跡が、稗田村の十石足の
 土地と
ともに、潜りの地として村橋時貞に宛て
行う旨の毛利家家臣連署の執達状が在る。    

           (巻156)

(弘治三年 長府の長福寺(現在の功山寺)で
大内義長は自刃し、防長は毛利の天下に帰したが
この政変による家臣らの所領安堵の書状であろう)

 伊倉には金富(かなどみ)
 金富山(かねどみやま)の字がある。

 文明十三年(1481年)
 卯月の「長州八社五堂御神事国衙衆出仕注文」
(『忌宮神社文書』)に
“正月七日白馬節会 御馬7疋内四番富成、包富、
重武、三年一度充引之”

“同十七日国歩射於守宮神在之、一の宮分射手、
田部検非違使、包富検非違使、赤間関
公人六人、
十番射之”

“十二月十日御神宝屋自郷々打之、
二間六尺間富成名、一間六尺間包富名”などと

「包富」の地名がでてくる。

 寛正四年(1463年)
 8月「1・2両社出仕国官人等注進文」
(『竹内家文書』)に
“大夫介包冨弥次郎有
遠”とあるが、
「包冨名」の住人であろうか。
なお「包」の人名の訓みには「かね」が
ある。

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