【稗田】
地名の由来については、稗田とは文字通りの
ことか。あるいは「水の冷たい田」のことか。
(高橋文雄「山口県地名考」)とある。
正慶二年(1332年)鎌倉時代
『正慶乱離志』の中で、長門探題北条時直が
伊予の国、平井城を攻めたところ、翌日南軍の
土肥得能等と戦って運悪く大敗し、命からがら
長門に逃げ帰ったとき、
「防長軍兵の内長門国 薭田孫四郎入道上下三人
討ち死に」とあって、
稗田の名前が出てきます。
建武二年(1335年)南北朝時代
4月8日の「武久家文書」には、
薭田次郎兵衛尉経清が「長門国成富名并綾羅木
屋敷」を知行していたと記し、
当地区一帯に稗田氏を称する豪族が居住して
いたことを示している。
弘治三年(1557年)戦国時代
8月28日の杉松千代丸当知行注文に
「豊西郡内薭田村成富名」とあるのが、
地名の初出の記録であり、稗田村にあった
成富名のうち九石分を杉松千代丸(重良)に知行
したことを示している。(閥閲録79巻)
―(長府の長福寺(現功山寺)で大内義長が
自刃し、
防長は毛利家の天下に帰した。
この政変による家臣らの所領安堵といった
書状が上記の資料である。)―
弘治四年(1558年)戦国時代
9月3日の桂元忠ほか毛利家家臣連署奉書 によって
薭田村十石分が村橋時貞に宛行われている。
また、「閥閲録」によれば、
細工人村橋新兵衛の頃、
この時に豊西郡薭田村の久佐弾正忠跡の
十石足を、伊倉村の内十三石とともに、
替りの地として村橋時貞に宛行う旨の
毛利氏の児玉就忠ら連署の執達状がある。
(閥閲録156巻)