川中地区散策Ⅵ

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散策の道 垢田①

垢田の辻(下関市垢田町)

 垢田八幡宮の東側の国道191号線と
 交わる付近一帯を垢田の辻といった。

『御国廻御行程記』には「九門休」の南の
「垢田村」と「幡生村」の「村境」との間
 に、西に分かれる分岐路があり
“垢田九門休通り伊﨑江行、垢田村往還よ
 り伊崎迄一里”と記す。
※垢田八幡宮の周辺一帯は、「九門給」と
いわれていたがこれは荘園の公文に与え
られた給領地であった。

 【 道標:「右いざき・左せき」】 
  石 柱:関道の道しるべ
    (現在は垢田八幡宮東側の
     鳥居近くに移転)

  石柱には
「右いざき、左せき、津守茂兵衛」
  刻まれている。 
 北浦から続いてきた道が、ここで武久を
  経て伊崎へ進む道と、
唐戸方面へと進む
 道とにわかれていたことを示している。

  慶応2年(1866年)垢田村に関門を設け
警戒を厳にしたが、明治2120日、
新政府は全国の関門を廃止し、庶民の旅行
を便利にした。これで全国の交通は著しく
容易になった。
 豊浦藩もこれに従って全藩地にある関門
を廃止した。そしてその敷地は一般に払い
下げられた。関門が廃止された所は、
垢田の辻など八箇所である。   
   (『下関市史』藩制―明治前期)

 新影流国嶋先生顕彰碑 
 新影流剣道師範国嶋与四郎政常天保八年
(一八三五年)に長府に生まれ、
 代々長府藩士で、剣の奥義を極め、
 文久・慶応のころ、長門五郡に剣士を募る
ことあり、非常に功があった。
のち武技の錬磨に心がける人が多かった
川中に来て、垢田に道場を設け、近隣の
壮丁数十名に剣技を授けた。

 




垢田八幡宮鳥居 八幡宮参道東側入口
垢田八幡宮東側鳥居の近「右いざき」
垢田八幡宮東側鳥居の近く「左せき」
新影流国嶋先生顕彰碑 鳥居をくぐると左側

散策の道 垢田②

垢田八幡宮
  祭神として応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
の御三方を奉り、斎田は宮田といって
今の
川中会館の辺りにありました。
 この神社の創建年月日は不詳なれど古く
祭神は犯すべからざる霊験があり、里人の
尊崇を集めただけでなく、遠く山形、福井
福島、鳥取、山梨、島根、和歌山の人まで
拝め尊んだと言われます。
 拝殿の天井に書かれた絵画と、柱に掛かって
いる龍の彫刻は、古宮のものをそのまま伝え
たものといわれ、両方とも精緻を極めた
類のない逸品と折り紙をつけられています。

<境内末社> 
   天之御中主神社
   (俗稱妙見社、天之御中主神、素盞鳴命)  
 貴布禰神社
 (保食神、高龗神、闇龗神)


《天之御中主神社御由緒》

 妙見社は初め、黒崎に在り、俗に黒崎妙見とも 
 いわれた、海上航行の船から望見されるところに
 あったので通航の時は、帆を三合下げて、挨拶を
していた、この事を怠ると忽ち難破、座礁という
椿事に出会うので、正徳五年(1715年江戸時代)
の夏、藩へ願い出て、「堀」という土地に遷座し
のち明治39年八月、内務省の指示により、
この地に移した。

垢田八幡宮西側鳥居
垢田八幡宮
天之御中主神社
貴布禰神社

散策の道 垢田③

海蔵寺 (垢田町3丁目)

 黄檗宗万福寺派に属し、山号霊光山。
 本尊は聖観世音菩薩。

 享保九年(一七二四年)七月創建。
 本尊は聖観世音菩薩。「村浦明細書」
(1858年)に「海蔵寺 唐派」とある。

 かつて垢田村の字海蔵という、いまの
五十嵐氏宅付近に天台宗の無柱の一庵があって
海蔵庵と称した。あるとき貞梁という名の僧が
行脚の途中にこの庵で一泊した際、仏像に霊感
を得たので、この旨を土地の長者の熊野源左衛
エ門に話し、その援助を得て海蔵庵を再興した
のが海蔵寺の由来であるという。

 今の堂宇は享保九年(1724年)の建立で
本尊は秘仏とされ、内陣深くに秘蔵されている。


海蔵寺木造聖観音菩薩立像
          (下関市指定文化財)

 昭和六十三年六月十五日下関市指定有形文化財
(彫刻像高159.5センチメートル)
 海蔵寺には、古文書、古記録などは残っていな
いが、防長社寺由来によれば「海蔵寺の儀は往古
より古跡と申来り本尊観音太子の丸木作と申し伝
え候、元和元年(1615年)より己前は難相知」
と見え、古くから観音像があったことがわかり
ます。
 この観音像は楠材で、頭部、体部、及び右手
左手の肘より上膊部をふくめて一材から彫出
され頭部、体部には深い内刳が施された一本造
りです。
顔面は後世に手直しされたと思われますが鼻筋は
秀れて通り、鼻梁は高いことなど、鼻から口元
までの作りは、当初の面影をよく遺していると
思われます。体軀は量感にとみ、肉付きのよい
肩張りや、誇張された腹部の張り出しは平安時代
初期の特徴をよく伝えています。
 制作年代は、十世紀から十一世紀ごろと見られ
下関では最も古い仏像です。

 

海蔵寺門
海蔵寺仏堂
海蔵寺木造聖観音菩薩立像
海蔵寺木造聖観音菩薩立像

散策の道 垢田④

厄神社(垢田町三丁目)

 祇園社が八幡に合祀されてから厄神は公会堂
に安置されていたが、大正年間
にチフスの
大流行があり、厄除けの
神様として八幡社の
木を伐り
今の地にお室を建てて祀ったもので
毎年五月二十一日と九月十七日に海蔵寺の住職
にお経をあげてもらい
手料理でおこもりをする。

喜佐方丸遭難慰霊碑
新垢田北町)

 明治四十二年十一月二十九日に大連から
大豆を積んで帰航中に蓋島の近海で座礁
して沈没した貨物船第二喜佐方丸
(三千トン)の乗組員慰霊の石碑である。
乗組員・乗客を含め八十余人が遭難した。


恵比須社
(新垢田北町)
 
 明治三十六年四月二日に垢田浦漁業組合が創立
されたが、漁業はもっぱら農家の農閑期の仕事
であった。豊漁と海上安全を祈願する
浦恵比須社が設けられた。 

 

 

厄神社
喜佐方丸遭難慰霊碑
恵比須社
恵比須社

散策の道 垢田⑤

垢田の地蔵群 

 垢田にも地蔵が七ヵ所あり、八月の地蔵祭りに
は小学生が海から砂や、小石を運び、盆提灯を
たくさん並べ灯をともし、大人も参る。その時の
賽銭は、子どもに与えられるという、慣わしが
残っています。 
但し、昨今は子ども達の人数が年々減少して
いき、一部のお地蔵様にだけ行われています。
垢田のお地蔵さまは、地区の大人の人達に大事
にされ今もお供え物やお花の絶えたことがあり
ません。

【おはなし】
垢田地区には、七か所のお地蔵さまがあります。
そして、どの地蔵さまも、いいお顔をして
しかも可愛らしい前掛けをしておられます。 
これは、幼児を失った母親が、わが子を愛おし
みながら、悲しみの涙で縫い上げた前掛けなの
です。幼い子をなくした母親たちは、前掛けを
縫い、わが子の名前や年齢を書きつけて、
お地蔵さまにそれを掛けて、夭折した幼子を弔
うのです。
毎年八月二十四日には、お地蔵さまの祭りを
します。垢田の地蔵祭りは、子ども達が主役
です。子ども達は海から砂や小石を運んできて
お地蔵さまを清めます。
それから盆提灯をたくさん並べ、お花やお菓子を
お供えします。準備万端整って、盆提灯に灯を
入れるころになると子ども達は、それぞれの地区
のお地蔵さまに、交替でお参りをします。
どの地区の子ども達も、お小遣いを出し合って
花火を買ったり、福引を作ったりしてお参りに
来た地区の人達を接待します。
それが、子ども達の何よりの楽しみです。
こうして、垢田の地蔵祭りは夕方遅くまで子ども
たちの歓声に包まれるのです。勿論、後片付けも
子ども達でしますが、その日集まったお賽銭は、
子ども達に分け与えられます。
このようにして垢田地区の地蔵祭りは、地方色豊か
な温もりのある子ども達の祭りとして受け継がれて
います。

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垢田町1丁目10
垢田町3丁目2(吉祥院 横)
垢田町3丁目8-8
垢田町3丁目 吉祥院入口
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