江戸時代(藩制時代) その1
<長府藩 ― 長州藩(毛利藩)の支藩 ―>
【川中地区の沿革】
(「伊倉」「有冨」「綾羅木」「稗田」「延行」
「熊野」「垢田」「石原」)
※藩制時代においても、まだ「川中」の地名は
史上に 現れていない。
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慶長五年(1600年)
9月の関ヶ原の戦いによって、毛利氏を主将と
する西軍は徳川方の東軍に敗れ、10月10日、
毛利氏はこれまでの中国八ヵ国支配から、
防長二ヵ国に減知された。
その結果、毛利氏一族の所領替えが行われ、
豊浦郡は藩主輝元の 叔父である毛利秀元に
委ねられた。
秀元が長府に居を定めたことから、
以後長府藩と称される 。
このころにはまだ有冨、伊倉、赤田、綾羅木の
4村だけが史上に現れ、
石原、延行は有冨の、稗田、熊野は伊倉の小村と
なっていた。
文献:『検地帳』
綾羅木 一村立して以来、綾羅木村として変わら
ない。
伊 倉 伊倉は稗田と熊野を附名としている。
延 行 冨村の支村として延行村とあり、有冨村と
合わ せて 記載されている。
稗 田 薭田村、稗田という名前が伊倉・熊野と
合わせて記されている。
文献:『地下上申』
延 行 有冨村に属し「小村延行村」となって
いる。延行村は、ことに“諸給地入交”
と記されている。
稗 田 同付図には、一村として描かれている。
文献:『村浦明細書』
延 行 畝数九町六反二十四歩六朱、田高二百
十六石二升八合八勺と記しいる。
石高のうち給領地の割合は五十四・四
パーセントとなっている。
稗 田 一村として独立している。
文献:『風土注進』
稗 田 小村として稗田村と記されている。
文献:『長門国絵図』
熊野村は豊西郡に属し「ヒエタの内熊野」
と見える。
慶長8年(1603年) 江戸時代
徳川家康:征夷大将軍に、幕府を江戸に開く
江戸時代
慶長8年(1603年)~慶応4年(1868年)
慶長十五年(1610年)
文献:『検地帳』
綾羅木と赤田村は独立している。
有冨村は「在富村」と記され、延行村・石原村
と併記されている。
有冨村の支村として延行村とあり、有冨村と
合わせて記載されている。
伊倉は熊野・稗田を合わせて記されている。
・稗田とあって、伊倉・熊野と合わせて記され
ている。
・赤田村と記されている。
文献:『地下上申』
・有冨村は石原村、延行村を当村の小村として
いる。
・延行村は、ことに“諸給地入交”と記されて
いる。
文献:『地下上申』付図
・有富村は石原村を合わせている。
・伊倉は稗田・熊野を併せている。
・稗田一村としても描かれている。
文献:『村浦明細書』
延行村は、畝数九町六反二十四歩六朱、
田高二百十六石二升八合八勺と記している。
石高のうち給領地の割合は五十四・四
パーセントとなっている。
慶安二年(1649年)
文献:『検地帳』
・稗田が熊野村の小村として記され、
『絵図』には
・伊倉、稗田の名前が見える。
・熊野をもととして伊倉はこれに合わされ
ている。
・伊倉・稗田を含めて熊野村一村として描か
れている。
元禄年間(1688年~1704年)
文献: 『元禄郷帳』
・熊野村に伊倉・稗田が含まれている。
・伊倉・稗田を含め、熊野村一村
・赤田村と記されている。
文献:『地下上申』付図
・熊野村一村で描かれている。
文献:『村浦明細書』
・熊野村一村で記されている。