火の見山(大字伊倉)
「日ノ見山、日見山」標高139.5メートル
山は、笠型をしていて、西側山腹に豊神社が
あるが古代にあっては、山全体が神体であっ
た思われる。
「神南備山(かんなび やま)」神が宿ります
山としてその地の人々に崇敬されている。
(「意久神」がこの山のご神体と考えられる)
山頂には石祠
①笠形をした独立峰である
②その山が古い集落に近い平野に位置している
③古来の神社がその山麓に鎮座している
火の見山の狐火(民話)
昔、綾羅木村の海辺に近い所に、“おうまさん”
というおばあさんが住んでいました。
おじいさんとたった一人の息子を海で亡くした
おうまさんは、自分の食べるだけの畠を耕して
生活していました。おうまさんは、薬草のこと
ならとてもくわしく、その知識を生かして、
子どものふきでもの(おでき)、百日ぜきの
せんじ薬などを、困っている村人に分けあげ、
非常に喜ばれていました。
ある冬の、雪のチラチラ降る寒い晩でした。
さすがに訪れる人もなく、おうまさんは囲炉裏
のそばでひとり熱いお茶をすすっていました。
「トントン、トントン」と、かすかに戸を叩く
がします。
「どなたじゃ」と問いかけましたが返事があり
ません。おうまさんは土間に降りて、つっかい
棒を外して戸を開けました。みるとそこには、
着ている物は粗末でしかも素足で雪の中に震え
ている十歳ぐらいの女の子と七歳ぐらいの男の
子の姉弟が立っていました。
さっそく、おうまさんは、囲炉裏の傍で熱い
お茶をふるまいながら、「こんな夜更けに、
なにごとじゃ?」と問いただすと、
「お母ちゃんの、あんばいが悪く、ひどい熱なん
よ、早う来てみてちょうだい」
「どこから来たんじゃ?」「伊倉村から」
「よう来たのう、かわいそうに」
神経痛で痛む足をさすりながら、おうまさんは
二人とともに出かけました。伊倉村まで一里
(4キロ)途中の親子松で一服もしないまま、
雪の舞う人気のない土手道に、やっとの事で
たどり着きましたが、二人とも足を休めません。
「お家はどこじゃ?」と聞きましたが
「今少し」とことば少なです。村を外れて、
豊神社の右手の杉林の山道を、二人はさほど疲れ
もみせずに足早に登ってゆきます。おうまさんが
あえぎながらついて行きますと、山の中腹に灯り
の見える一軒家がありました。「ここなん」と
姉が言います。入ってみると粗末なセンベイ布団
に一人の女が寝ています。
「おれ達の母ちゃんじゃ」と弟が言います。
お母さんは、かなりの熱の様でしたが、うるんだ
目でおうまさんを拝みました。布団をはいでみる
と、左足が象の足のようにはれあがっています。
丹念に調べると足の裏のかかとの所に大きな棘が
刺さっていてかなりな膿をもっていました。
おうまさんは二人の子どもに樫の木の枝を焼かせ
て、その枝でグイと傷口を突き破りました。
するとドクドクとかなりの量の膿と一緒に、
ツゲマツのとげが飛び出してきました。おうまさん
が、ヨモギの葉の練り薬を塗ってやると熱も
下がって楽になったようで、お母さんはぐっすり
寝入りました。
「もう大丈夫じゃ。また明日、来てやるからな」
というと、二人は涙を流して喜びました。
「おばあちゃん、お礼をしたいけど、貧乏暮らし
で何もできません。せめてもの恩返しに今日から
綾羅木の浜に出入りする漁船の目印になるよう、
ここからずっと、火を焚き続けるけぇ」と大きな
すんだ目をあげて言いました。
翌日雪の中、休みを待って、村人と一緒に山に
登ってみました。しかし、夕べ訪ねた家がどうし
ても見つかりません。おうまさんは首をかしげな
がら下山しました。
その日からです。夜になると山の中腹に灯がと
もって遠く綾羅木の沖に出魚している村人たちの
安全を守り続けたということです。山には火を
たいた跡はどこにもありません。人々は狐火に
違いないと言いました。
それ以来、この山のことを「火の見山」という
ようになりました。
(陽の昇る山、つまり日の見山と
記された本もあります)
今となっては本当のことを知る由もありません。
朝暗い内に出て、ひたすら、なすや大根を天秤
棒で担いで馬関(下関)へ売りに行った伊倉の村
人たち。おじさんが、ナタ豆ギセルで一服し、
おばさんが土産に買った飴玉をほおばった、小高
い親子松あたりでよくあった狐のわるさが、
おうまさんが雪の夜道を二人の子どもと山へ
登ってから、
めっきりへったことはほんとうのようでした。