地蔵堂遺跡
稗田南町にあった弥生時代の埋葬遺跡。
標高44Mの小丘の頂上部に立地し、宅地
造成作業に際して、昭和44年に箱式石棺
一基が発見されたが、市教育委員会が報告
を受けたときすでに遺跡は破壊された後で
あった。石棺は主軸を東西に向け、柩の中に
葬られた人の両側に1本ずつ置かれた
蓋弓帽二本と連弧文銘帯鏡1枚が出土した。
蓋弓帽は、中国漢時代の車に付けた天蓋の
骨の先端を飾る金具で、前漢時代のものと
考えられ、わが国唯一の出土品である。
現在東京国立博物館に収蔵されている。
その跡地は、現在の稗田南町四番地の一画に
位置する。
散策の道 稗田①
散策の道 稗田②
稗田地蔵(4ヵ所(3ヵ所))
稗田にも四ヶ所に(現在は3ヶ所)地蔵があり
伊倉・垢田と同様のことが行われていた。
昔は、ダイガラ踊りという、台唐(足踏み式の
搗精器具(踏み臼))を台にして踊ったもので
あり、手料理持参で賑わったそうである。
(火の見山)
稗田町民館裏に祀られる地蔵
このお地蔵さまは、人通りの少ない場所に
ひっそりとたたずんでいます。このお地蔵様
は現在の稗田橋近くにあって、50年以上も
前に稗田町民館が建設されるころ、お堂が取り
壊され町民館のこの場所に移転されました。
それまでは大きなお堂に祀られ、お堂の前には
鐘撞堂もあってお地蔵さまの右側には御大師様
(弘法大師)、左側にお釈迦様が一緒に祀られ
ている非常に珍しいものです。
特にこの御大師様は「体の具合が悪くなった
らお参りすると治る」との言い伝えが
あるそうです。
散策の道 稗田③
石炭層発見(旧稗田:山の田北町)
下関市立第五幼稚園運動場西隅(現在閉園)
昭和27年、28年日本の石炭ブームで稗田
にも炭層が発見され業者により試掘された。
しかし、炭層が薄く採算が合わないために断念
されている。
川中中学校建設時(昭和23年頃)、運動場
からも炭層が現れ、火をつけたら燃えていたと
いわれている。
稗田厄神祠(稗田中町)
えのき公園の東隅にある石祠。
祭事は行われていない。
(現在は稗田町民館の東側に祀ってある)
えのき公園は450平方メートル。
東隣に墓地があり、その北隅に稗田
土地区画整理事業完工の記念碑がある。
散策の道 稗田④
稗田土地区画整理事業
昭和46年に着工した稗田土地区画整理
事業は、施工面積328,771.93平方メートル
であった。
これにより昭和49年9月11日に大字
稗田の一部が稗田北町、稗田中町、
稗田西町となる。
昭和55年2月12日に
それぞれ住居表示実施。
(「稗田土地区画整理組合」を設立。
昭和46年6月9日着工)
※3年4ヵ月の歳月と約7億円を投じ、
10万坪の宅地が完成
<えのき公園隅>
稗田土地区画整理事業竣工記念碑
昭和52年に着工した、火の見山の西南
麓に拡がる伊倉・稗田・熊野の三大字に
またがる丘陵地を住宅地として開発する
土地区画整理事業は、
施工面積401,072.03平方メートル。
現在の川中豊町団地でありその五分の
二は稗田地域である。
昭和57年12月28日には
川中豊町五~七丁目が独立して、
大字稗田の地区は消滅した。
このような土地造成により、昔の姿を
とどめているのは、ただ稗田町だけと
なった。
稗田町
昭和55年2月12日の住居表示実施に
伴い大字稗田の一部が稗田町となった。
中央を武久から新下関に通じる県道が
東西に貫いている。
稗田川
稗田川は昭和45年、53年の二度に
わたる改修工事により洪水の被害はまぬ
がれることができたが、上流地域の住宅
増により水質汚染を来たし、どぶ川に変
わった。昔は、清流で子どもたちも終日
水浴を楽しみ魚も多くとれる良い川で
あった。
稗田川は環境の変化により、毎年氾濫を
繰り返し常襲水害地となる。古来の美田も
湿田化し、耕作者は深く之を憂慮し町を挙
げて市に陳情し稗田川改修工事は完成せり。
(稗田土地区画整理事業竣工記念碑)
産 業
稗田は純農村であった。
しかし、平地に乏しく、川の流域に僅か
水田があったが、土質もよくなく、収穫は
少なく丘陵の畑地に頼らざるを得なかった。
作物は大根が主であり、戦前戦中大量に出荷
されていた。
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