地名の由来2(有冨・延行)

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有冨・延行

【有冨(ありどみ)】
  地名は佳字二字になる「名田」と考えられる。
  こうし桂字の名乗りは古代中世における
  下級武士層の名であったもので、
  これらの武士たちが土地の耕作権を得て開墾し、
 そこに自らの名を付けたことになる。

 嘉禎3年(1237年)
「赤間神宮文書」 五月二十五日の
 阿弥陀寺免田注文に、阿弥陀寺免田十二町
 のうち、有冨が五反あるのが
 有冨の地名初出記録である。

 文明13年(1481年)
「一の宮住吉文書」 六月の
「一の宮神領豊東・豊西両郡田数并土貢
   注文案写」に、

“一所貞応三百四十歩有冨名内 平田弐反 
 分米捌(八)斗”と見える。

 大内義弘の治世下(1380~1399年)
  高野助九郎が有富三十石を給せられている。
    (『閥閲録』巻四十五の一
         「高野賢永禅門由来事」)


行(のぶゆき)
 地名の由来は『下関市史』に
 “昔は石原から有冨へかけての総称であった。

 ながく延びた村であったことから地名が出た
 といわれている。と述べ、村の地形から
生じた
 ものとするが
   高橋文雄の『山口県地名考』
  “これは名田か。”としている。

 地名の二字ともにいわゆる佳字であることから
  この名の者が当地の耕作権を得て開
発し、
  その地に自分の名を冠して延行と称したものと
  考えられる。

 
 文明十三年(1481年)
『一宮住吉神社文書』六月の
「一宮神領豊東・豊西両郡田数并土貢注文案写し」

 に、“壱処貞応参百歩 延行名内 平田弐反 
 分米捌(八)斗”と見えるのが最初の
記録である。

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