川中地区ガイド

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遺跡巡り

①下関市立考古博物館

下関市立考古博物館は、国の史跡・綾羅木郷遺跡に隣接して平成7年5月13日に開館しました。
 屋外の遺跡公園は「史跡の道」ルート上に位置し、古墳や竪穴住居も復元され、市民の憩いの広場として親しまれております。館内には下関市域を中心とした弥生・古墳時代の考古資料を展示し、研究の成果として企画展も毎年開催しています。また、市民が参加する体験学習や教養講座の開催など、教育普及活動にも積極的に取り組んでいます。
 前庭の床面の模様は、梶栗浜遺跡から出土した多鈕細文鏡の文様を拡大したもので、
博物館の北側には、屋外展示として弥生時代と古墳時代の住居が復元され、岩谷古墳
(横穴式石室の円墳)も移設復元されています。
 常設展と企画展の観覧料は無料です(特別展は別に定める)。お気軽にお立ち寄り下さい。
  
  下関市立考古博物館 HP   

      常設展示場

  

②史跡 綾羅木郷遺跡

 史跡綾羅木郷遺跡は、綾羅木平野北側の洪積台地先端に位置します。
本州最西端で営まれていた弥生時代(弥生文化を表す)の貯蔵群が発見され、西日本最大の重要な遺跡であることが確認されました。 
 綾羅木郷遺跡は、弥生時代(約2千5百年から2千年前)に営まれた集落と古墳時代の埋葬跡を主とした遺跡です。
 明治32年~33年(1899~1900年)頃発見され、昭和31年~34年(1956~1959年)に幾度にわたり調査が行われました。
 その後、昭和40年~44年(1965~1969年)には、遺跡の下層に包蔵される硅砂の採掘に伴い、緊急に発掘調査が継続して実施されました。
この発掘調査によって、弥生時代前期中頃から中期前半のわが国最大級の約1,000基に及ぶ貯蔵穴群(貯蔵用竪穴)が発見されました。貯蔵穴は深さ2m、底面の直径2mほどの大きさで、上部には覆屋がかけられ、農耕によって収穫された穀物を蓄えていたと考えられています。また、貯蔵穴群を取り囲むように、断面がV字形で幅2m以上の環濠が確認されています。
 出土遺物としては、貯蔵用竪穴や環濠から石器などとともに大量の土器(8000点を超える石器類)が出土し、コメ・ムギといった穀物や、モモ・クリなどの種子が炭化した状態で発見されています。このほかに、当時の食生活を示す魚の骨や貝殻、イニシシ・シカなどの獣骨をはじめ、土笛やクジラの骨を加工したアワビオコシなども出土しています。
 このように、綾羅木郷遺跡は、弥生社会の生活文化を知ることができる山口西部の拠点集落として位置付け(下関の弥生文化を今に伝える)られていますが、集落を構成する住居跡は未発見で、隣接する別の場所に住居区域があったとも考えられます。また、遺跡の西側は複数の石棺を持つ墳丘墓や、前方後円墳である若宮1号墳をはじめとした古墳が築かれるなど、弥生時代中期から古墳時代には墓地として利用されています。
 なお、綾羅木郷遺跡は、高度成長期の産業開発と文化財保護のはざまで、市民・研究者・行政が一体となって調査と保存運動を行いましたが、昭和44年(1969年)3月8日、硅砂採掘業者の重機によって遺跡の一部が一夜にして破壊されました。しかい、国により破壊を免れた範囲について史跡の緊急指定が行われるなど、その後の文化財保護の方向性を決定する端緒となった遺跡でもあります。

 昭和44年3月11日に国の史跡に指定されました。

    史 跡 綾羅木遺跡案内

③若宮古墳群

 若宮古墳群、「史跡綾羅木郷遺跡」の西端は、響灘を見渡す台地の突端に当たり、弥生時代中期から古墳時代には墓域としても利用されました。複数の石棺を持つ墳丘墓や、箱式石棺を埋葬主体に持つ、全長39.7mの前方後円墳である若宮1号墳など、6基の古墳が築造され、古墳群を形成しています。「史跡綾羅木郷遺跡」の一部として国史跡に指定され、現在では、遺跡公園として整備されています。

⑤上の山古墳跡

 上の山古墳
 一説には全長100mを超える前方後円墳ともいわれる、古墳時代後期(6世紀前半頃)の古墳です。明治421909)年、綾羅木川北岸域の有冨、延行、郷引田などのお宮をまとめて川北神社が造られた際、古墳の存在が明らかとなりました。横穴式石室と推定される埋葬主体から発見された副葬品の中には太刀の把手に付けた装飾品とされ金属製三輪玉のほか、六鈴鏡(鈴のついた鏡)、鈴付釧(鈴の付いた腕輪)や衣服を飾った瑪瑙製の勾玉、硬玉製の管玉、ガラス製の小玉があり、東京国立博物館で保存されています。

⑥観音堂古墳

 観音堂古墳
 平成212009)年に市道有冨・延行線の道路改良工事に伴って発掘調査が実施され、現在は市道有冨・延行線の西側に移築されています。石室は南に開口する横穴式石室で、玄室の基底部と石敷きの床面以外は大きく破壊されていました。石室の大きさは幅2.3m、奥行2.8mで、成人三人が埋葬されたと考えられています。副葬品として鉄刀、鉄鏃などの鉄製品やガラス製の小玉、瑪瑙製の勾玉などの玉類が1,300点以上出土しています。

⑦仁馬山古墳

 史跡仁馬山古墳
 瓢形の古墳(前方後円墳)として明治351902)年に発見され、大正101921)年の現地調査により仁馬山古墳として名づけられました。後円部に対し、小ぶりな前方部をもつ墳丘形状から、地域で最も古い前方後円墳として平成31991)年515日、国の史跡に指定されました。
 平成17~20(2005~2008)年度に実施した発掘調査により、推定長6.2mもの長大な割竹形木棺を粘土で包んだ粘土槨を埋葬主体とすることが確認され、山口県西部域で最大規模を誇る、全長74.8m、後円部径47mの墳丘構築の具体的な方法や埴輪の存在なども明らかになりました。 

梶栗浜遺跡

梶栗浜遺跡

  大正2年(1913年)に現在のJR山陰線の新設工事の際に、砂丘から発見された組合式石棺の名から2口の細形銅剣と1面の鏡が出土しました。鏡は、朝鮮半島で製作され、国内初の発見となった多紐細文鏡と呼ばれる鏡で現在、九州国立博物館に保存されています。

  下関市教育委員会が行った発掘調査で、響灘沿岸の弥生時代の墓制や朝鮮半島との交流を解明する重要な遺跡であることがわかり、昭和55年(1980年)3月14日、国の史跡に指定されました。

延行条里遺跡

条里制遺構(延行条理遺跡)

条里制遺構は、班田収授の法を施行するための地割として、奈良時代から平安時代にかけて、ほぼ全国的に施行された。一辺が一町(ちょう)、すなわち108メートルの碁盤の目状の方形地割が「坪」とよばれる基礎単位なって、縦横六町の三十六坪をもって、一つの「里」を構成した。

 綾羅木川下流域に広がる肥沃な平野部を、水路や畦畔により碁盤目状に整然と区画した、古代の条里制に始まる土地区画を残す遺跡です。170㏊以上の規模と考えられ、ほ場整備や区画整理により、地表の景観は失われつつありますが、地中には古くから継続して維持された畦畔・水路等の遺構が今も残っていることが発掘調査により確認されています。

中山忠光卿潜居地

中山忠光潜居地

  幕末の尊攘派の公家として知られている中山忠光は、政局の変化の中で長州藩へ
 逃れ、長府毛利家の預りとなり、元治元年(1864年)1月~7月まで延行村に潜居
 しました。激動する政局の中で、命の危険にさらされた忠光は、その後、現在の豊北 
 町域をはじめとする山間部を転々とし、同年11月(諸説あり)に長府藩保守派の手 
 にかかり落命しました。
 (綾羅木浜の埋葬地は史跡中山忠光墓として国の史跡に指定されています。)

 

  中山忠光は弘化2年(1845年)に権大納言中山忠能の七男として生まれた。
 久坂玄瑞、真木和泉ら攘夷急進派の人物と親しくなり、次第に攘夷を強く志向
するようになる。文久3年(1863年)8月、攘夷急進派が先鋒となり挙兵。
忠光は「天誅組」と呼ばれたこの集団に首領として参加し、
幕府領の五篠代官所(現在の奈良県五條市)襲撃など行うも、幕府の追討を
受けて天誅組は崩壊し、忠光は長州藩へ逃れることとなった。
 長州藩では、長府毛利家の預りとなり、白石正一郎邸を訪れている。
しかし、町中にある白石邸は潜居に適さないため、月山(現在の華山)の麓の
庭田村(現在の下関市豊田町大字庭田)での潜居を経て、延行村(現在の下関市
大字延行)にて一軒家を新築し、文久4年(1864年)1月4日よりこの新居へ
移り住んだ。当地はその隠棲の地として伝えられている。ここでの生活は、
外出すらままならぬものであったとも伝えられ、この頃騎兵隊士達がひそかに
訪問し、親交を深めたという。
 また、忠光への慰めとして、赤間町(現在の下関市赤間町)の恩地与兵衛の娘、
登美女を紹介し、側女として忠光の傍に置くこととなった。忠光は登美女を気に
入り、仲睦まじく暮らしたという。しかし、この頃「池田事件」や「禁門の変」、
列強四国と長州藩の間で勃発した「下関戦争」などが起こり、長州藩にとって
苦難の時が続いた。その影響を受け、忠光も延行村を離れ、同年7月には
宇賀村上畑(現在の下関市豊北町大字北宇賀上畑)の常光庵、
8月には白滝山麓の田耕村(現在の下関市豊北町大字田耕)の農家など、
山間部を転々とするようになった。
 元治元年(1864年)11月(諸説あり)に長州藩士の手にかかり命を落とした。
遺体は綾羅木浜の砂丘に埋葬され、その墓は「中山忠光墓」として国史跡に指定されている(現中山神社境内)。

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