地名の沿革Ⅲ(明治・大正)

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明治時代の行政区画

明治 ・大正・時代
川中地区の沿革
  (「伊倉」「有冨」「綾羅木」「稗田」
     「延行」「熊野」
「垢田」「石原」)
   ※明治時代においても、まだ「川中」の地名は
        現れていない。

  大正3年(1699年)になって、ようやく
     「川中」の地名が現れます。

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明治維新
(1867年~1869年)
 しばらくは、旧藩庁の下に庄屋を置き、綾羅木川
   以北の
石原、有富、延行を有冨支配、
 以南の伊倉、稗田、熊野、垢田を熊野支配、
 また綾羅木を一支配とするに変わりはなかった。

明治3年(1870年)
 この三支配の制度が改められ、
  ・綾羅木川以北を有冨支
    (綾羅木・延行・有冨・石原の4ケ村)

  ・綾羅木以南を熊野支配
      ( 伊倉・稗田・熊野・垢田の4ケ村)
         の
二支配とした。 
  ・各支配には各々村長が置かれた。

明治5年(1872年)
 ・綾羅木川以南、以北に、それぞれ官選の
       戸長を置いた。

明治8年(1875年)
 6月12日に大小区制が実施され、南北二支配を
   合わせて
一区域とし、綾羅木・延行・有冨・石原
   伊倉・稗田・熊野・
垢田の8ケ村で第16区
   第5小区が編成された。

 1名の戸長を置いて統制した。
文献:『山口県大小区村名書』
         『山口県大小区村名明細書』

    ・熊野の小村が記されている。

明治12年(1879年)
 1月6日には郡区町村編成法が実施されて、
   もとの8ケ村に復し、

 綾羅木村には一戸長役場を置き、
 延行・有冨・石原の3ケ村連合戸長役場を
   有冨村字殿屋敷に、

 伊倉・稗田・熊野・垢田の4ケ村連合戸長役場を
   伊倉村字下川に
置いた。

明治15年(1882年)
 4月には、綾羅木・延行・有冨・石原・伊倉
    稗田・熊野・垢田の
8ケ村に加えて、
    大坪・武久・幡生・後田・椋野を合わせて、

 伊倉村外13ケ村連合役場を伊倉村に置いた。

明治16年(1883年)
   ・熊野村戸数   43戸 228人
 ・垢田村戸数  146戸 766人
 ・稗田村戸数   47戸 227人
 ・綾羅木村戸数 100戸 437人
 ・有冨村戸数   66戸 280人

明治17年(1884年)
 1月には上記の制度は廃止され、綾羅木・延行
   有冨・石原・
伊倉・稗田・熊野・垢田の8ケ村
   のみ一区域とし伊倉村に
戸長役場を設け、
   官選の戸長を置いた。

明治18年(1885年)
 官選の戸長から地域住民の選考による
   民選戸長と変わった。

明治22年(1889年)
 4月1日の市町村制実施に伴い、
    区という制度が廃止され、

 8ケ村を統合し山口県豊浦郡の1村として、
 
   豊西下村(とよにししもそん)
が成立した。

  それぞれの村は大字となった。
       役場は伊倉に置かれた。

     (山口県豊浦郡豊西下村大字伊倉〇〇番地
          というようになった。)

 ― 村名は従来の通称「豊西郡」の下方(南方)
        に位置している
ことから下村とした。―

明治24年(1891年) 
    ・綾羅木戸数 160戸 451人
  ・有冨戸数  100戸 291人
  ・延行戸数   63戸 189人
  ・稗田戸数   75戸 237人
  ・垢田戸数  253戸 820人

大正3年(1699年)
 9月1日には、豊西下村を改称して、
   川中村(かわなかそん)
なった。
   豊西中村(のちに安岡村)
       豊西上村(のちに吉見村)、

   豊東下村(のちに生野村)など、
  まぎらわしい村名を嫌って、村名を改め
      たいという動きが拡がった
ために、
      ほぼ同時期にれぞれ村名が改められた。

 ※この時に、はじめて「川中」の名前が現れます。

  ー次ページー       
   地名の由来1(伊倉)
   地名の由来2(有冨・延行)
   地名の由来3(稗田・熊野・
                            垢田・川中豊町)

   地名の由来4(綾羅木)
       沿革 長門国・豊浦郡

 

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