平安時代~安土桃山時代(中世)
―川中地区 地名の記録― その1
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貞観十五年(873年、平安時代)
『 三代実録』 12月15日
「長門国正六位上位意久神に従五位を授ける」とする記事がある。
この「意久神」は後の伊倉八幡宮(現在の豊神社)
の前身と考えられ、相殿の「伊久神社」は、
その名残りと考えられる。
嘉禎3年(1237年)鎌倉時代
『赤間神宮文書』の五月二十五日の
阿弥陀寺免田注文に、阿弥陀寺免田十二町のうち、
有冨が五反あるのが 有冨の地名初出記録である。
正慶二年(1332年)鎌倉時代
『正慶乱離志』の中で、長門探題北条時直が
伊予の国、平井城を攻めたところ、翌日南軍の
土肥得能等と戦って運悪く大敗し、命からがら
長門に逃げ帰ったとき、「防長軍兵の内長門国
薭田孫四郎入道上下 三人討ち死に」とあって、
稗田の名前が出てきます。
建武二年(1335年)南北朝時代
4月8日の『武久家文書』には、
薭田次郎兵衛尉経清が
「長門国成富名并綾羅木屋敷」を 知行していたと
記し、当地区一帯に稗田氏を称する豪族が居住して
いた ことを示している。
また、綾羅木の地名初出記録がこの文献資料である。
貞治三年(1364年)北朝時代
『国文寺文書』に
「長門国法華寺免田坪付注文文伊倉村」とあり、
大内義弘の治世下(1380~1399年)に
おいて高野助九郎が有富三十石を給せられている。
(『閥閲録』巻四十五の一
「 高野賢永禅門由来事」)
応永九年(1402年)室町時代
2月29日大内盛見寄進状写に「豊西郡伊倉」と
見える。
卯月5日の「恵良広慶打渡状」に、 去る29日
御寄進の地伊倉名の土肥入道跡を
1・2宮両社と亀山宮に 寄進している。
(亀山八幡宮文書)
応永三十四年(1427年)室町時代
『住吉神社文書』
「中村重方・吉田堅重連署書状写」
2月19日にも、住吉神社の
“御造営料所伊倉”とある。