川中地区概要

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川中地区の現状

<人口と世帯数(平成30年8月末日現在)>
人口:32,812人
男性 15,427人
女性 17,385人
 世帯数:15,226世帯

<面積(平成26年10月1日現在>
面積:11.22平方キロメートル

川中地区概要

下関中心市街から北へ約6Km、旧下関市の西方に位置し、西側を響灘に面し、JR山陽本線・山陰本線、国道191号、域内の北部を流れる綾羅木川沿いに開けた地域です。川中の町名は、この地区が綾羅木川がなす沖積平野に位置することによります。北は安岡地区、東は勝山地区(新下関地区)、南は本庁地区(旧々市部)の山の田が隣接しています。
昭和50年代後半から川中豊町の宅地開発による市街化が始まり、併せて地区の南部中央を、市道垢田楠乃線が開通して主要な生活道路となったことで、急速に人口が増加していきました。ほどなくして都市計画道路長府綾羅木線の整備に伴い「新下関西土地区画整理事業」「川中土地区画整理事業」等が進められました。そして山口県道259号線新下関停車場稗田線と国道191号下関北バイパスの開通により、川中地区での便利さはさらにまし、ますます市街化が進んできました。現在では本庁管内に次いで最大の人口を有するほどになっています。

< 地域自治 >
川中地区には大きく分けて、綾羅木、川中、垢田、川中豊町、熊野の5つの大きな町があります。
さらに小さく分けると綾羅木地区19町、川中地区23町、垢田地区15町、川中豊町地区7町、熊野地区4町、川中全体で68の町があります。
川中地区には各町の住民が自主運営している自治会が56団体あり、その上部組織として、綾羅木地区・川中・垢田・川中豊町・熊野の5つの自治連合会があります。
自治連会の役割としては、単独の自治会ではやれないこと、たとえば、各地域の要望事項の取りまとめや各自治会間の調整、海岸清掃や夏祭り・敬老会などの行事などを行っています。




ー【 沿 革 】ー

●1854年~1859年(安政年間)
・石原村、有富村、延行村、伊倉村、熊野村、稗田村、垢田村、綾羅木村8村
●1889年(明治22年)4月1日:町村制施行
・石原村、有富村、延行村、伊倉村、熊野村、稗田村、垢田村、綾羅木村が合 
併して、
豊浦郡豊西下村が発足。
●1914年(大正3年)9月1日:豊西下村が改称して川中村となる。
●1937年(昭和12年)11月15日:川中村が下関市に編入。同日川中村止。

川中地区旧跡・名勝

【綾羅木郷遺跡】
綾羅木郷遺跡は今から2千5百年から2千年前に営まれた弥生時代の集落遺跡です。
昭和40年から始まった硅砂採掘に伴う緊急発掘調査によって、本州最西端の弥生文化を表す重要な遺跡であることがわかり、昭和44年に国の史跡に指定されました。
遺跡は昭和63年に公園として整備され、平成7年には隣接地に考古博物館が建てられまた。
このほか、川中地区には綾羅木川の北に県下3番目の規模の前方後円墳である仁馬山古墳などがあります。
【中山神社】
明治維新の先駆者であった青年公卿中山忠光を祭っているのが綾羅木海岸寄りにある中山神社です。中山忠光公は明治天皇の叔父にあたり、幕末の動乱期に急進派の青年公卿として活躍しましたが、元治元年(1864年)12月、20歳の時に兇徒に襲われ暗殺されました。
境内には彼のお墓とともに、中国最後の皇帝、宣統帝(薄儀)の弟、愛新覚羅薄傑、及び彼の妻で忠光のひ孫にあたる浩を祭神とする「愛新覚羅社」があります。
【豊神社】
往昔よりこの地区に伊倉八幡宮、稗田八幡宮、熊野神社の三社がありました。そして、この三社はそれぞれ伊倉、稗田、熊野の氏神様であり、文武、農業殖産の守護神として厚く信仰されておりました。
ところが、全国的な神社合併統合の気運のなかで、明治42年12月19日、この三つの社の祭神が合祀されて名称も新しく「豊神社」と改められ、広い地域の人々の崇敬をあつめつつ、今日におよんでいます。なお、神々の鎮座ましますこの地「伊倉」は下関地方でも最も古い地名の1つで、その昔上納する米を保管する役所の倉庫があったところからこの地名があるといわれています。


風光

【長州出島】
関門海峡沿いの港湾整備は、背後地の不足や船舶航行上の制約等により限界があることから、国際コンテナ貨物の増大や船舶の大型化に対応するため、関門海峡内に比べて制約が少なく、将来への発展可能性が高い新港地区に沖合人工島[長州出島]の整備が進められています。
北部九州地域の中枢国際港湾の一翼を担う国際港湾として、また、時代のニーズに対応した、東アジアとの高速RORO船やコンテナ船によるシャトル航路の基地としての活躍が期待されています。
夕日に浮かぶ「長州出島」を眺めてみてはいかがでしょうか?
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